「徳川家康の子どもたち〜信康、秀康、秀忠など」4コマヒストリー

「徳川家康の子どもたち〜信康、秀康、秀忠など」4コマヒストリー

徳川家康は2人の正妻と、15人以上の側室を持ち、11男5女を授かりました。天下人の子といっても、その運命はさまざま。激動の時代に生きた家康の息子たちを紹介します。

4+1コマで徳川家康の子どもたち

+1コマ

 

詳細解説:徳川家康の子どもたち

長男:松平信康

松平信康は、徳川家康が今川義元の人質として駿府で暮らしていた1559年に生まれました。母は家康の正室築山殿です。
翌年、桶狭間の戦いで今川義元が殺されると、家康は自立して岡崎城に入り、後に織田信長と同名を結びます。長男の信康は織田信長の娘徳姫と結婚しました。

しかし、徳姫から織田信長に書状が送られ、母・築山殿とともに、当時敵対していた武田氏との内通を疑われてしまいます。築山殿は家康の命令で殺され、1579年、信康も切腹させられました。
信長が自分の子の信忠より、器量の優れた信康を殺し、将来の禍根を絶ったという説も。家康と信康の不和が原因だったともいわれています。

次男:勇気秀康

正室築山殿の侍女だったお万の方と、家康の間に秀康が生まれました。家康は自分の子であることを疑っていたのか、当初認知しようとしなかったといわれます(または築山殿の手前、認知できなかった)。

1584年、家康と羽柴(豊臣)秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの講和の際、秀吉の養子となりました。羽柴秀康と名のり、河内に1万石の領地を与えられます。1590年には、下総の武将、結城晴朝の養嗣子に入り、10万1000石の大名となりました。

関ヶ原の戦いでは、宇都宮に陣をはり、東北から進軍する上杉景勝らを防ぎ、戦功をたてました。長男の信康は亡くなっており、次男の秀康は次の将軍候補でもありましたが、跡を継いだのは3男の秀忠でした。

秀康は松平に復姓し、越前福井藩の初代藩主となります。

三男:徳川秀忠

生母は家康の側室・西郷の方。浜松城で生まれました。

次男の秀康が養子に出されたため、世子として家康を支えました。
関ヶ原の戦いでは、別動隊として中山道を上りましたが、真田昌幸が守る上田城攻略に手間どってしまいます。そのため、戦に遅参するという失態を演じました。

秀忠は家康の怒りを買いましたが、重臣らの推薦もあり、1605年に将軍職を継ぎました。家康は将軍を引退後も大御所政治を行い、すべての実権が秀忠に譲られることはありませんでした。家康の死後は将軍、大御所として江戸幕府の基礎を築きました。

九男:徳川義直、十男:徳川頼宣、十一男:徳川頼房

徳川義直の生母は家康の側室、お亀の方。尾張名古屋藩の初代藩主となりました。尾張名古屋藩は将軍家を補佐し、将軍継承権も認められる御三家の筆頭です。

徳川頼宣の生母は、家康の側室お万の方(次男秀康の母とは別人)。御三家のひとつ紀州藩の初代藩主です。

徳川頼房は兄頼房と同じ、お万の方が産みました。御三家の水戸藩の初代藩主です。

義直、頼宣、頼房の3人は、兄、姉が続けて早逝した後の子だったため、家康に愛されたと言われています。

土井利勝

家康の家臣土井利昌の子とされますが、家康の隠し子との説も。幼少時から家康に仕え、後に2代将軍秀忠、3代将軍家光を助けました。
古川16万石の領主となり、幕府では老中、大老もつとめました。3世紀にわたり続く、幕藩体制の基礎を作った人物です。

参考資料

『詳細図説 家康記』小和田哲男

朝日日本歴史人物事典

日本大百科全書(ニッポニカ)

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