「徳川家康が江戸幕府を安定させるまで〜元和偃武までの25年〜」4コマヒストリー

「徳川家康が江戸幕府を安定させるまで〜元和偃武までの25年〜」4コマヒストリー

17世紀初めから幕末の19世紀後半まで、江戸幕府による統治の下、日本は大きな戦乱のない時代が続きました。徳川家康はどのようにして平和な社会の礎を作ったのか?豊臣政権下で力を増し、「元和偃武」を成し遂げるまでの25年間に注目しました。

4コマで徳川家康と江戸幕府

詳細解説:徳川家康と江戸幕府

豊臣政権で随一の実力者に

1590年、豊臣秀吉が小田原の北条氏を倒し、関東と東北を平定。天下統一します。

秀吉の命令で家康は東海から関東へ移封され、江戸に入りました。豊臣政権下で家康は力をつけ、1598年に秀吉が亡くなった後は、五大老の筆頭格として政務を担います。

関ヶ原の戦いに勝利し天下統一

しかし、秀吉の遺臣・石田三成との対立が深まり、1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発。
家康率いる東軍は、三成らの西軍を破り、実質的に天下を統一します。

江戸幕府を立てる

しかし、あくまで立場上、家康は豊臣政権の執政役であり、秀吉の子・豊臣秀頼の臣下です。

1603年、家康が征夷大将軍に就任します。将軍は大名たちとの間に主従関係を結び、全国を支配しました。
家康は名実ともに天下人となり、秀頼との立場は逆転します。

さらに1605年、家康は子の徳川秀忠に将軍職を譲ります。家康が早々に退いたのは、将軍職を徳川家が世襲すること、そして豊臣秀頼に政権を返す意思がないことを示すためです。
とはいえ、本当に政治から引退したわけでなく、駿府を拠点に大御所政治を行います。

豊臣氏を滅ぼし政権を安定させる

いっぽう、豊臣氏は政権を失ったとはいえ、以前大きな財力を誇り、幕府に対抗しうる力を持っていました。江戸幕府の安定のため、豊臣氏の排除は避けられない課題だったと言えます。

1614年、家康は方広寺鐘銘事件を起こします。京都方広寺大仏殿に豊臣秀頼が奉納した鐘の銘に、難くせをつけたのです(「国家安康」「君臣豊楽」という銘が、家康の名前を2つに切って呪い、豊臣氏の繁栄を祈ったものだ、とした)。豊臣氏の国替え、秀頼の江戸下向、母の淀殿の江戸下向といった、いずれも受け入れがたい三者択一を迫りました。

その年の大坂冬の陣で徳川軍は大坂城を包囲します。一度は講和しますが、家康は内堀の埋め立てなどを強行し、さらに無理難題を突きつけ秀頼を圧迫し続けました。

翌1615年、大坂夏の陣が勃発し、大坂城二の丸が陥落、本丸は炎上し、豊臣氏は滅びました。

ここに、徳川家康は元和偃武をなし遂げます。元和はその時の元号(1615=元和元年)、「偃武」とは武器をおさめることで戦争の終結を意味します。

江戸幕府は将軍15代、265年に渡って存続しました。

参考資料

詳細図説家康記 (著)小和田哲男

山川 日本史小辞典 改訂新版

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