「徳川家康の父と母、その生い立ち」4コマヒストリー

「徳川家康の父と母、その生い立ち」4コマヒストリー

後に将軍となり江戸幕府をひらく徳川家康ですが、幼年、少年時代は、決して環境に恵まれてはいませんでした。誕生から人質時代、戦国大名として自立するまでの道のりをみていきましょう。

4コマで徳川家康の生い立ち

 

詳細解説:徳川家康の生い立ち

三河岡崎城で誕生

徳川家康は三河国(今の愛知県頭部)を領地とする松平氏の居城、岡崎城で生まれました。

父の松平広忠17歳、母の於大の方15歳の時の長男で、竹千代と名付けられました。竹千代は父の広忠、祖父の清康も幼い頃名乗った名です。

松平氏は西は尾張(愛知県北西部)の織田氏、東は駿河(静岡県東部)の今川氏との間で、政治的に難しい立ち回りが求められました。母・於大の方は政略的に広忠と離縁させられたのもそのためです。

家康は3歳のときに母と生き別れになってしまいます。

6〜19歳を人質として生きる

家康自身も6歳のとき、今川義元の命令で人質として駿府へ送られることになります。

しかし、その旅の途中、田原城主・戸田康光という武将によって、尾張の織田信秀に身柄を引き渡されてしまいました。

家康は2年間、織田信秀の人質として尾張で過ごします。

人質を奪われた今川義元もだまっていません。織田信秀の異母兄・織田信広を攻め生け捕りにしまし、家康との人質交換を計り、成功します。

8歳の家康は駿府へ送られ、長い人質生活を送ることになります。

駿府時代の家康のエピソードを『詳細図説 家康記(小和田哲男)』から引用します。

今川義元の駿府館で諸将が年賀に伺候したとき、縁先から放尿し、並み居る諸将を驚かせたり、<中略>義元の父氏親の菩提寺増善寺で鷹狩をしようとして、しかられた話も伝えられている

人質とはいえ、比較的のびのびと育ったようです。

14歳で元服、16歳で結婚

諸説ありますが、14歳のとき家康は元服し、幼名の竹千代から元信と名乗るようになります。「元」の字は今川義元から授けられたものです。

2年後、今川の一門・関口義広の娘で、今川義元の姪である後の築山殿と結婚しました。

さらに次の年、初陣を飾り戦功をあげたと言われます。

19歳のとき、今川氏から自立する

そして1560年、今川義元が尾張の織田信長を攻めます。今川勢は尾張領内に侵攻しますが、桶狭間で奇襲にあい、義元が殺されてしまいます。

主を失った今川勢は散り散りに退却し、岡崎城にいた兵も駿府に引き上げます。そこで、家康は本来の居城である岡崎城に入ったのです。

この後、家康は今川氏から自立し、織田信長と同名を結びます。三河を統一し、さらに東海諸国に勢力を拡大し、天下人への道を進んでいくのです。

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