徳川家康には2人の正室と、15人以上の側室がいたと言われ、多くの子をもうけました。
家康を支え、ときに運命に翻弄された妻たちのなかから、2人の正室と2人の側室を紹介します。
4コマで家康の妻
詳細解説「家康の妻」
築山殿
徳川家康が今川家の人質として、駿府にとどめられてときに迎えた正室です。瀬名姫、駿河御前などとも呼ばれます。
父は、今川義元の重臣で関口親永(氏広)、母は義元の妹とされています。
つまり、築山殿は義元の姪というわけです。
1557年、家康が16歳のときに結婚し、長男信康と長女亀姫を生みました。
家康が今川家から独立すると、甲斐の武田氏と対立し、織田信長と同盟を結びます。
築山殿と信康は信長から、武田氏と内通しているとの嫌疑をかけられてしました。
築山殿は家康の命令で、家臣によって殺されてしまいます。
半月後、信康も切腹させられました。
朝日姫(旭姫)
豊臣秀吉の異父妹で、家康の2人目の正室です。
信長の死後、豊臣秀吉は勢力を広げ、天下統一へと向かっていきます。
そんな秀吉に簡単に屈服しなかったのが徳川家康。1584年、小牧・長久手の戦いで両者は激突し、その後も対立します。
そこで秀吉は自分の妹である朝日姫を嫁がせ、家康との融和を図ろうとしました。そのとき、朝日姫には夫がいましたが、強制的に離婚させられてしまいます。
さらに秀吉は、母の大政所を人質に差し出し、ようやく家康を従えることに成功します。
朝日姫は1590年、京都で亡くなりました。
西郷局
秀吉が名家の出身者を多く側室としたのに対し、家康は名もない家の女性や未亡人を迎えています。
西郷局もそのひとり。はじめ西郷義勝と結婚し、1男1女を生んでいます。
義勝が戦死したのち、西郷局は家康の側室となり、三男で2代将軍の徳川秀忠、四男で尾張清洲藩主の松平忠吉を生みました。
三方ヶ原の戦い、設楽原の戦い、小牧長久手の戦いなど、家康が苦しい戦いを続けていた時期に、浜松城にあって徳川家を支えました。三河武士団からも人望が厚かったと言われています。
1589年、我が子が将軍になる姿をみることなく、38歳の若さで亡くなりました。
阿茶局
阿茶局もはじめは、今川氏の家臣神尾忠重の妻となり、夫の没後に家康に仕えました。
家康の戦にも同行し、小牧・長久手の戦の際には流産しました。
1614の大坂冬の陣では、豊臣方と和睦の使者にもなりました。
2代将軍・秀忠の娘、和子(東福門院)が入内の際には母の名代を務めました。従一位に叙されるなど、家康没後も活躍しました。
参考文献
山川出版社 日本広辞典
詳細図説家康記 (著)小和田哲男
山川 日本史小辞典 改訂新版
朝日日本歴史人物事典
小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)