「徳川家康の家臣〜最強の徳川四天王〜」4コマヒストリー

「徳川家康の家臣〜最強の徳川四天王〜」4コマヒストリー

成功する人物は、自分の努力や能力だけでなく、部下にも恵まれているもの。徳川家康も例外ではありません。家臣の中でも、特に功績の大きかったのが「徳川四天王」です。

4コマで徳川家康の家臣〜徳川四天王〜

詳細解説:徳川家康の家臣〜徳川四天王〜

酒井忠次

松平氏のもっとも古い庶流家・酒井家にうまれます。家康の父、松平広忠につかえ、その妹の碓井姫を妻としました。家康の義理の叔父、ということになります。

家康より15歳年長で、家康が幼いころから仕えました。家康が今川氏の人質となっていた時代も、主君を支えました。

家康が今川氏から自立し、三河を統一した際は「東三河の旗頭」と呼ばれ、重用されます。

三方原の戦いで武田信玄に大敗した際、敵勢は浜松城の城門近くまで追りました。城を守る酒井忠次は太鼓を打ち鳴らすと、武田方驚き「きっと何か策略があるにちがいない」と、退却したと言います。「酒井の太鼓」は歌舞伎の演目にもなった有名なエピソードです。

本多忠勝

父の代から家康に仕え、三河一向一揆の平定、姉川の戦い、三方ケ原の戦、長篠の戦い、高天神城の戦いなどで抜群の戦功をあげました。

幾度も戦った武田の家臣からは「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」とうたわれるほど。

関ヶ原の戦いでは、家康の本陣近くで作戦の策定にあたっていましたが、戦況が不利に傾くと敵陣に数度切り込み、獅子奮迅の働きをみせました。

忠勝は生涯で50回以上の戦を経験しますが、身体にはひとつの傷跡もなかったと伝えられます。

榊原康政

1560年、徳川家康の小姓として仕えました。

後に本多忠勝とともに、旗本先手役に取り立てられ、姉川の戦いや三方原の戦いで、戦功をあげました。

豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦いでは、康政は豊臣秀吉を非難する檄文を敵方に送りつけました。秀吉は怒り狂い「康政の首を取った者に望みのまま褒賞を与えよう」とまで、触れを出したと伝わります。

関ヶ原の戦いの際には、徳川秀忠を補佐していましたが、信州上田城の真田昌幸・幸村父子を攻めあぐんで、肝心の決戦に遅参してしまいます。秀忠は責任を問われる立場ですが、康政がすべての責任をとる形で家康との間をとりもちました。

井伊直政

父・井伊直親は今川氏に仕えていましたが、敵との内通を疑われ、殺されてしまいます。各地を放浪していたところ、1575年、徳川家康に見いだされて仕えることになります。

翌年、武田勝頼との戦いで初陣すると、以来、本多忠勝、榊原康政らと並んで先鋒をつとめるようになります。

武田氏が滅んだ後、その遺臣を率い、戦場で恐れられた「赤備え」を継承します。その後も、旗や具足などを赤一色で統一し(井伊の赤備え)、直政自身は「井伊の赤鬼」と異名を取りました。

関ヶ原の戦いでは、家康の4男・松平忠吉の後見役を務めました。福島正則と先陣を争う形で、戦の口火を切ったことが知られています。戦功をあげますが、関ヶ原で負った傷がもとで、2年後に亡くなりました。

参考資料

朝日日本歴史人物事典

日本大百科全書(ニッポニカ)

世界大百科事典 第2版

 

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